霧の木曜日

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千と千尋の神隠し

解説 千と千尋の神隠しは、子供のころは、見ても差して面白いとは思えなかった

それは、千尋と言う生き物が、つらい体験をつらいものとして受け取っていたからだろうか

じゃあ、今見たとき

底に隠された、もう一つの題材が浮かび上がってはこないだろうか

まず、この作品は、従来の宮崎作品にしては、妙にリアリティーがある

これは間違いなく、高畑の影響なのではなかろうか

高畑は、実際には、起き得ない事を

無理やり現実に投入させるために

有りもしない現状を薄皮で見て、その上に非現実を乗っけると言う

実に、小説少年特有の非現実さを持ち合わせている

しかし、それは、はたから見たら、どんな魔法よりも美しくおもしろく映ることだろう

それはきっと宮崎駿も例外ではない

そして、高畑は、その非現実を、まわりに類似させてしまったのだろう

宮崎駿は、今作において、非現実から現実を目指した

親と言う物は、頼れるものではなく

子供の事を無視してワンマン

金さえあれば、全てが通って行くこの現在へのルールへの疑問

これは、豚になった両親の作法への疑問もあるのではないだろうか

千尋も天真爛漫ではなく

どっちつかず、この世の中が、美しいのではないかと言う

空想にとらわれてしまっている現代の子供を差している

最初に、書くこととして、宮崎は、仕事があり、人は生きる事が出来る

それを描きたかったのだろうが、正直、微妙である

現実とはもっと平等で酷い物である

やはり夢見がちである

しかし、実はこの作品の真の本当に言いたいことは

宮崎駿本人に起った不満だったのではなかろうか

この千と千尋の神隠しに置いて、この作品になってから変わったことがある

そう、セル画からデジタルへの移行である

これは、宮崎駿に置いて、本当に、やる気を損ねる事だったに違いない

これが、前半の現代批判 デジタル反対

それが、湯屋の出来事であり

後半の姉魔女の家での出来事が

セルが最高アピールだったのではなかろうか

「本当の物は、手作業じゃなきゃ」

まんま不満を入れてはいないだろうか

つまり、デジタルでないのであれば、私は、本当の仕事を教えてやれるが

デジタルでは、ただの作業になってしまう

最後のラストで、両親は、居なかった

つまり、デジタルでやりたい事は無い

そんな意味が込められている気がする

そして最後の歌では、お決まりの歌詞が流れ

セルへのレクイエムとしたのだろう

しかし、さすが宮崎駿である

それは、ポニョとなって

老害を元気にまき散らすことになる